1876年(明治9年)、東京・神田に生まれた北沢保次──のちの楽天。 大宮の名家・北沢家の四男でした。 10代で横浜の英字新聞社に飛び込み、そこで出会ったのがオーストラリア人画家ナンキベル。 欧米流の風刺画を叩き込まれた少年は、やがて日本の新聞界へと足を踏み入れます。
福沢諭吉の時事新報に23歳で迎えられた楽天は、 日曜版に自ら「時事漫画」と名づけた連載コーナーを立ち上げます。 それまで「ポンチ絵」「おどけ絵」と軽くあしらわれていた絵の世界に、 社会を映し出す力と、人を惹きつける物語を持ち込んだ── それが現代に続く「漫画」の出発点でした。
1905年、楽天は自らの雑誌「東京パック」を世に送ります。 全16ページがフルカラー、しかもキャプションに英語と中国語を並記するという、 明治の出版物としては異例の国際性。 笑いの力で時代を風刺するこの雑誌は爆発的に売れ、 面白いものを「パックだね」と呼ぶ流行語が街に生まれました。
昭和初期の欧州周遊では、パリの美術展に出品して高い評価を受け、 フランス政府から勲章を贈られています。 一方で、ドイツ皇帝を描いた風刺画がドイツ大使館の抗議を招いた際には 筆を曲げることを一切拒否。表現者としての矜持を最後まで貫きました。
楽天は晩年まで後進の育成に心を砕き、 自宅を「三光漫画スタヂオ」として若い描き手たちに開放しました。 その影響は世代を超え、手塚治虫が楽天の描くキャラクターから 大きな刺激を受けたと後年語っています。
1948年、先祖の土地である大宮に居を構え「楽天居」と名づけた楽天は、 筆をとって日本画に没頭する穏やかな日々を過ごしました。 1955年、79歳で他界。旧大宮市(現さいたま市)は名誉市民第一号の称号を贈り、 遺族から寄贈された作品・愛用品・敷地のすべてが、 のちに「さいたま市立漫画会館」として生まれ変わります。